こんにちは、ショコラです。
今回は、野中広務さんを取り上げます。
元衆議院議員で、内閣官房長官や自由民主党幹事長などを歴任した野中広務さんが死去しました。
政治家として長いキャリアの中、自身も経験した戦争体験を踏まえ、反戦を声高に主張してきた同氏だからこそ、時には首相への批判の声をあげるなど、一貫した姿勢で議席に就いていました。
そんな野中広務さんについて、調べました。
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『野中広務と北朝鮮の関係は!?』
野中広務(のなか ひろむ)さんは、1925年10月20日に京都府で産まれます。
元は日本国有鉄道大阪鉄道局の職員だった野中広務氏は、ここで当時局長だった佐藤栄作氏と出会います。
政治活動への第一歩は地方行政でした。
青年団活動に身を置いていた野中広務氏は各地の青年団運動家との出会いも多く、その中には竹下登氏もいました。
衆院議員・田中好氏の秘書を経て、地元京都において園部町議会議員や町長、京都府町村会会長や政府税制調査会委員なども務めます。
京都府議会議員を務め、辣腕を振るった後、中央政界へ進出。
自治大臣・国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長を歴任し、国政への強い影響力を持つようになります。
1994年、村山内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣を果たし、1998年に小渕内閣では官房長官を務めます。
2000年に小渕首相が倒れ、森喜朗自民党幹事長が小渕氏の後を継ぎ、自民党総裁に就き、野中広務氏は森氏の後継者として自民党幹事長へ昇格します。
しかし、衆議院比例区に73歳定年制を導入し、多くの高齢代議士引退を迫ったことで党内の反発を買い、2003年10月に政界を引退します。
また、野中広務氏は北朝鮮に対して友好姿勢をとってきました。
それは野中広務氏の実家が鉱山から逃げてきた朝鮮人労働者をかくまっていたからです。
さらに、野中氏の少年時代に面倒を見てくれたのも朝鮮人女性だったと言います。
しかし、1997年11月に森訪朝団の一員として北朝鮮に渡った際、北朝鮮側の拉致問題に対する誠意のない対応に怒りを露わにし、二度と訪朝しないと強く主張しました。
拉致疑惑がありつつも隣国であるがゆえに歩み寄ろうとする野中広務氏でもこの時の北朝鮮側の対応には激昂したようです。
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『救急搬送で入院!?病院で死去!?』
政界を引退した後も衆議院議員選挙に出馬するも落選。
政権交代後の2009年12月には、全国土地改良事業団体連合会会長に就任。
引退してなお、集団的自衛権の容認に反対の姿勢を示し活動を続けてきましたが、2017年11月27日の夜、京都市下京区のホテル食事をとった後、体調不良を訴え救急搬送されます。
その後は入院生活を送っていましたが、本日2018年1月26日午後、病院で死去します。
2018年1月26日配信のフジテレビ系「FNN」では、以下のように報じています。
小渕内閣の官房長官や自民党幹事長などを務めた、野中広務元衆議院議員が亡くなった。92歳だった。
野中広務元官房長官は「戦争が、どれだけ大きな犠牲と傷痕を残してきたか、もう一度歴史を学んでほしい」と述べていた。
(中略)
野中元官房長官は「憲法問題やその解釈、この国はどこへ行くのか」と述べていた。
安倍内閣をけん制するなど、積極的に発言を続けてきたが、2017年11月に、地元・京都で倒れ、入院生活を続けてきた。
救急搬送後に事務所の担当者は容体について安定しているとコメントを残していますが、残念ながら今回の訃報となってしまいました。
死因については心不全や脳出血など、様々な報道がなされていますが、正式な見解はまだ不明です。
その鋭い舌鋒から、「政界のスナイパー」の異名も持っていた野中広務氏のご冥福をお祈り申し上げます。
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